大判例

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札幌高等裁判所 昭和36年(う)48号 判決 1961年12月21日

被告人 高橋忠之助

主文

本件控訴を棄却する。

理由

各所論にかんがみ、原審及び当審において適法に取り調べた証拠に基づき、原判決の事実誤認の有無について、次のとおり判断する。

(一)  本件事故の態様、すなわち被告人の運転した乗合自動車(バス)が安岡征勝の運転する軽自動車に接触したか否かの点について

この点は、原判決説示の理由のほか、司法警察員植松岩雄作成の実況見分調書、原審証人寿崎幸雄の証言等によつて明らかな右軽自動車が右側に転倒している事実にも徴するときは、右乗合自動車と軽自動車とが接触した事実はなかつたものと断ぜざるを得ない。これに反する原審及び当審における証人石黒亀久の証言は、原判決指摘のとおり、実見に基づく供述ではなく単なる憶測にすぎないものと認められるし、また本件の事故は自己が乗車していた車の発進後のことであるとか、軽自動車は左側に転倒したとか、重要な点について事実に吻合しない内容があり、全体として信用性が薄く、また安岡征勝の司法巡査に対する供述調書中の「木暮英子が危いと叫んだ。それで彼女がバスにふれたのではないかと思う。」との供述内容も、必ずしも両車の接触を推認させるべきものともいい得ない。なお、原判決が、木暮英子は軽自動車から転倒した後、乗合自動車の後部車輪にひかれたと認定している点も疑えば疑える程であるが、その点はともかくとして、本件事故が両車の接触によつて惹起せしめられたものとは、ついにこれを認めることができない。したがつて、本件事故は被告人が乗合自動車を安岡の運転する軽自動車に接触せしめたことによるものとの事実を前提とする検察官の主張はすべて理由を失うものといわなければならない。

もつとも、このように本件事故は乗合自動車が軽自動車に接触した故と見られないとすれば、その事故の直接の原因は甚だ捕捉し難いこととはなるが、安岡征勝の司法巡査に対する供述調書によれば、安岡は、「バスの運転台が自分の身体と平行になつたときに、はじめてバスの追越しに気がつき、危いと思つた。それからどのようになつたかは分らない。しかし、ハンドルを左に切ると同時にブレーキを踏んだのではないかと思う。」旨の供述をしているので、本件事故は、被告人の追越しによつて、軽自動車を運転していた右安岡(あるいは同車に後乗していた木暮)が周章した結果と見る可能性もないではなく、これが認められれば、被告人の行為と無関係とはいえないわけであつて、検察官からはその事実を基礎とする主張もなされているので、次にこの点に関連させて被告人の注意義務違反の存否について審究すべきものとする。

(二)  被告人の運転した乗合自動車が安岡征勝の運転する軽自動車を追い越した際における両車の間隔及びその間隔の適否について

(1) 被告人は、捜査官に対する各供述調書において、軽自動車を追い越したときの乗合自動車と軽自動車との間隔はほぼ一米五〇前後であつたと述べているが、この供述内容は寿崎幸雄の司法警察員に対する供述調書、同人の原審における証言等によつて正しく裏づけられている。同人は、乗合自動車の約六〇米後方を同車と大体同じ速力で追随していたのであり、乗合自動車との間隔を最もよく知り得る立場にあつたと見られるし、当審における証言によつても不自然なかどは見当らない。原審証人高橋篤も、同人の知り得る限りで、追い越すときの間隔は一米五〇程度であつたことを認めているし、前掲実況見分調書に明らかな軽自動車の転倒の態様からもこの程度の間隔は存したものと推認される。もつとも、安岡征勝は、右間隔について二〇糎(原審公判廷の供述)ないし三〇糎(供述調書)位しかなかつたというが、この点は答弁書も指摘しているように、同人は歩道部縁石から道路中央方向へ四米三〇以内の地点を進行しており、また乗合自動車の左側車輪は追越時ほぼセンターライン上にあつたことが証拠上うかがえるところ、前掲実況見分調書によれば、右縁石とセンターラインとの距離は六米二五であり、したがつて乗合自動車と軽自動車との間隔は少なくとも一米五〇以上あつたと見られるので、右安岡が突磋の間に感じた二〇糎ないし三〇糎という距離感が正しいかどうかは甚だ疑わしいといわなければならない。また石黒亀久の証言が信用し難いことはすでに述べたとおりである。そして、右一米五〇の間隔は、被告人が追越しにかかるときからそれが終るまでの間おおむね一定していたと認めるべきである。ただ、この関係で検討を要することとして、被告人が前方約六〇米に対向して来るトラツクを認め、追越しの終り頃ハンドルを左に切つたかどうかの点があるが、同人の捜査官に対する供述のように、かりに若干左へハンドルを切つたことが真実としても、前掲寿崎幸雄の各供述は事故直前の状態における両車の間隔について述べているのであるから、追越しの始終を通じその間隔に大きな相違があつたとは考えられない。

(2) 右説示のように、被告人が乗合自動車を運転して軽自動車を追い越す際における両車の間隔は一米五〇であつたと認められるが、検察官は、かかる場合の安全な間隔とは、数学的に見て接触の危険なき程度をいうのではなく、速度、車体その他具体的事情に基づき狼狽などの心理的動揺による転倒をも考慮にいれて決すべきものであるところ、本件では到底適当な間隔とは認められないと主張する。しかし、本件事故現場は、札幌―千歳間を通ずる一級国道三六号線で交通はきわめて頻繁な地点であり(前掲実況見分調書)、かかる道路において三五粁の時速で、二人乗りとはいえ時速約三〇粁(寿崎の前掲供述調書)の比較的安定した速力で直進中の軽自動車を追い越すことは、現在の自動車交通事情に照らし一般的に交通の安全を害するものとは考えられず、これが非難されることとは到底断じ得ない。追越しにあたり一米五〇の間隔をおいただけでは、軽自動車や原動機付自転車等の車両にあつては、運転者によりある場合には狼狽し転倒等の危険を招くことが絶対にないとは保し難く、本件事故についてもその疑いがあるが、かかる程度の危険の回避はむしろ追い越される側において、考慮すべきものに属するといわなければならない。要するに、本件追越しの際の間隔自体に関する限り、被告人はなすべきことをなしたということができるのである。

(三)  被告人に警音器吹鳴義務があつたかについて

本件事故発生当時施行されていた旧道路交通取締法施行令によれば、昭和三三年八月同令改正前の第二四条第二項に「後車は、警音器、掛声その他の合図をして、前車に警戒させ、交通の安全を確認した上で、追い越さなければならない。」とあつたのと異り、運転者に対し、とくに追越しの場合における警音器吹鳴の義務を課しておらず、むしろ「安全な運転のために必要な場合を除き、警音器を鳴らさないこと。」(同令第一七条第一号)として、運転者はみだりに警音器を吹鳴しないことを原則としている(なお、現道路交通法第五四条参照)。しかし、危険防止のために必要なときは吹鳴義務が認められなければならない場合のあることはもちろんである。ところで、本件の現場道路の車道部分は一二・五米で、安岡の運転する軽自動車の右側方には他車の通行のなかつたことは、いずれも原判決の確定したとおりと認められるから、被告人が右軽自動車を追い越すためには、同車をより左側に避譲せしめなければ通過できない関係にはなかつたものである。そして、同軽自動車は二人乗りであつたとはいえ、前叙の如く時速約三〇粁の比較的安定した速力で直進中で進路変更のきざしもなく、また原判決認定のとおりその運転には何ら不安定な挙措は見受けられず、かつ本件の道路においては交通は頻繁で追越しもしばしば行なわれるところであつたと推測されるので、このような状況で前述の如く一米五〇の間隔をもつて追い越す場合、それによつて前後車の衝突ないし接触のあることはもちろん、後車の運転者が心理的動揺を招き転倒の危険があるとは日常一般的に経験する事象とはいい難く(むしろ、軽自動車の運転者としては追越し車の有無についてはみずからもまた十分な警戒心を保つておることが普通とさえいい得る)、したがつて、本件の具体的場合においては、危険発生は予期し難いものとして、なおまた前記法条の趣旨からも、被告人には警音器を吹鳴する必要も義務も存しなかつたというべきである。

(四)  被告人に追越し抑止義務があつたかについて

被告人の捜査官に対する供述調書によれば、被告人の車が追越しを終ろうとする際、前方約六〇米に対向トラツクを認めているのであるから、当時の状況からすれば右追越しにかかる前すでにそのトラツクは一応被告人の視界内にあつたというべきであろう。しかし、追越しにあたつては検察官所論指摘の旧道路交通取締法施行令第二四条第二項にいうような方法をとるべき義務があるとしても、本件現場附近は同令二三条に掲げられた追越し禁止区域ではない以上(前掲実況見分調書)、一般的に追越しを抑止しなければならなかつたものとはいえないばかりでなく、その他追越し抑止義務が認められるのは、いかなる手段をとつても危険を回避できないような客観的事情が存するときと解せられるから、安全運転のため適切な措置を講じ得る限りにおいては追越し自体は許容されるものというべきである。しかるに、本件においては、乗合自動車の前方にはかなりの距離を隔てて対進して来るトラツクがあつたのみで、追越し直後に直ちにハンドルを左に切らねばならぬ程切迫した状況ではなかつたと認められるし、もつとも被告人が追越しを終わらんとする際ハンドルを若干左へ切つたと認められるとしても、それでも乗合自動車と軽自動車との間隔はなお一米五〇を保持し得たのであつて、追越しの方法について被告人に遺憾の点は少しもなかつたこと前叙のとおりであるから、果してそうだとすれば、追越し自体を抑止すべきであつたとして、被告人に注意義務違反を問うのは失当といわなければならない。

以上を要するに、本件において被告人は、追い越そうとした軽自動車と適当な間隔を保ちこれと接触したわけではなく、また間隔不相応、警音器不吹鳴、追越抑止という注意義務違背のため右軽自動車を転倒せしめたものでもない。したがつて、起訴状記載の訴因、原審において変更された訴因及び当審において予備的に追加された訴因のいずれを基礎としてみても、被告人に業務上過失致死の責任を問うべき不法な所為は存しないものというべきである。原判決が被告人に対し無罪の判断を与えたのは正当であつて、検察官所論の如く事実の認定を誤り、ひいて過失の存否についての判断を誤つたものということはできない。検察官の論旨は理由がない。

よつて、刑事訴訟法第三九六条により本件控訴を棄却すべきものとし、主文のとおり判決する。

(裁判官 矢部孝 中村義正 萩原太郎)

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